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【回復のメッセージ】アルコール依存症からの生き方の転換 北九州マック体験記

幼少期から自信が持てず、やがて飲酒にのめり込み、仕事や人間関係を失っていったY・Yさん。度重なる入院と診断を経て、北九州マックネクストに入所しました。仲間と共に歩んだ10か月の体験から、「自分を見つめ直し、飲まない生き方を続ける基盤」を築いていった過程を振り返ります。
※本記事は「北九州マック便り」(51号)に掲載された内容を転載しています。

前回の記事▶【回復のメッセージ】逮捕や受刑を経て見えた、「ありのままを受け入れる」 北九州マックでの回復

Y・Y

幼少期の性格と欠点

 自営業の職人の家に末っ子として生まれ、今になって思えば、甘やかされて育てられたと思う。小さい頃からよくうそを付き、家族からも「よくうそをつく子」と言われてきました。運動が苦手で小学3年生まで、補助輪なしの自転車に乗ることができなかった。
また中学生になるまで、思い通りにならないと、すぐに腹を立て、キレたり、逆に泣き虫と言われた程、すぐに泣いていた。

 さらに自分に自信が持てず、同年代、特に異性とのコミュニケーションが取れない等、お酒を飲む以前から「恐れ」「忍耐がない」「利己的」等の欠点が表れていたと思う。

 中学2年生の時、お酒の味に抵抗もなかったこと、両親公認で飲むことができたこと、飲んだ後の「安堵(あんど)感」を覚えたことが重なり、毎日飲む日々が始まった。高校生まで文系だったのだが、「パソコンが欲しい」という身勝手な理由で、理系の大学に進学した。一人暮らしの環境になったため、「自由になった」と思い込み、当時の友人たちとの飲み会、パチスロ、異性との交際等が生活の中心になっていき、この頃から1日の飲酒量が増えていった。4歳からやっていて、先生になる資格も取っていた電子オルガンも、この頃やめた。いま思えば、続けていればお酒に変わる趣味、代用品になっていたかもしれない。

職場のストレスと飲酒依存

 卒業後、唯一の内定先である派遣サービス企業に入社。派遣先の企業に出向し、上司となる方の下で業務を行うことになった。半導体関連という、大学で一番不得手な分野であり、質問してもばかにされ続ける等、上司との人間関係がうまく構築できず、日に日にストレスがたまっていった。

 その時に自分を助けてくれたのが「帰宅してからの飲酒」だった。子供の頃から感じていた「安堵感」、ストレスの原因を一時的に忘れられる夜を過ごせていた。しかし次の日になれば、上司と会いたくない、仕事に行きたくない気持ちが次第に強くなっていた。

 ある日、仮病を使ってズル休みをした。最初は罪の意識を感じたが、「済んだことだし飲んでしまおう」と考え、朝から飲み始めた。次第に「こうなったのはアイツが悪い、ざまあみろ」と逆の考えを持つようになった。

 この頃から普通の休日でも朝と夜に飲酒する様になり、パチスロは環境の変化で辞めることはできたが、飲酒は回数、量と共に年々ひどくなっていった。

 その後も転職するも、先輩や同僚との衝突が度々起こり、「なぜこうなるのか」と考えもせずに、「あいつらのせいだ」と決めつけて飲む日々が続いていき、ある日、先輩からどう喝されたことでもう無理と思い、逃げる様に退職した。

 その後、2014年にコンビニ(夜勤)の仕事に就いた。絶対にやらないだろうと思っていた接客業。だが今思い返すと、仕事で一番輝いていた時期だった。仕事にやりがいを感じられたし、経営者、本部社員、同僚、そしてお客さまからの信頼を頂き、月に1000時間くらい働く時期もあったが、将来的には正社員にするという話も頂いていたので、まったく苦にもならず約8年間続けることができた。

 しかしその仕事も、度重なる飲酒の影響で辞めることになった。

 2022年頃から身体、特に両足が動かしづらくなり、その影響で作業効率が落ち、リーダーを解任されたのが理由だった。経営者と次にリーダーになった方を逆恨みしながら、延々と飲み続けていた。

入院と依存症の診断

 2023年5月、夜にネットカフェで飲んでいた時に、初のブラックアウトを経験。

 救急車で運ばれ、1回目の入院になった。「電解質異常」と診断され、1カ月強で退院。退院時に「お酒は控えてください」と言われたため、ノンアルコール飲料に変えることにしたが、全く眠れなくなったため、1日で飲酒を再開した。

 節酒をしようとするも我慢できなくなり、入院前と同じ量をのむようになっていた。後に分かったのだが、コントロールが効かなくなった状態だったのだろう。

 家族に飲酒を続けていることを隠していたが、12月の母の死がきっかけとなり、自分がまともに歩けなっていたことが周囲に知られることになった。

 2024年正月明けに家族会議を行い、1月5日に検査を受けた結果、肝硬変の疑いと診断され、総合病院に入院。離脱症状が治まった後、精神科に転院し、アルコール依存症と診断された。「もうお酒を飲むことはできないので、断酒してください」と言われたが、転院当初は「退院したら隠れて飲もう」と思っていた。そう思うことで、入院の日々を乗り切ろうとしていた。

 その後、主治医から「自助会に興味があるか」と問われ、どのような会合か少し興味があったため、3月に地元のAAに見学の形でつながることになった。

 しかし当時はやる気が起こらず。1週間に1回、1時間のミーティングですら、面倒くさいと思っていた。まだ飲酒量をコントロールできると思っていたし、無力をまったく認めていなかったが、ミーティングに参加し続けることで、今後のことを思うと断酒しないといけないと思うようになってきていた。

北九州マックネクストでの回復

 5月に家族からの提案により、退院後に施設に入所することを決めた。病院のソーシャルワーカーから北九州マックおよびネクストを紹介され、見学、体験の後に、10月1日に北九州マックネクストに入所した。

 体験の時から思っていたが、回復しようとしている仲間の多さに驚きました。ネクストでのミーティング、自助グループを通して、自分は1人ではないと思えるようになり、次第にやる気が出てきた。

 ネクストにつながって10カ月。仲間にも支えられ、気づきを頂き、初めて自分を見つめる機会と、自分の回復の基盤ができてきたと思う。このつながりを保ち続けることで、飲まない生き方が続けられると信じることができるようになった。

 これからも仲間との1日1日を大切にし、就労と埋め合わせ、自立と回復の継続を目指して、取り組んでいこうと思う。


北九州マックについて

 マックの名前は1978年に東京・山谷地区に開設された三ノ輪マック(現・みのわマック)に由来します。当時、回復の見込みがないとされたアルコール依存症から多くの人々が解放され、家族や医療関係者から賞賛の声が上がりました。その実績と多くの理解者に支えられ、マックの運動は全国に広がり、現在は関東や九州を中心に活動しています。

 北九州では、北九州マック開設準備会を中心とする多くの理解者の支援を受け、2012年6月に北九州マック(地域活動支援センター)が開設されました。その後、14年4月にクロップハウス(共同生活援助)、24年1月に北九州マックネクスト(自立訓練〈生活訓練〉)の事業所が開設されました。

https://japanmac.or.jp/kitakyushumac/